若者を育てる社会はどこへ?:ゴルフ場に見る失われつつある教育の場 vol.435

社会が人を育てることを忘れてしまう時代

私たちが生きている現代社会では、セクハラ、パワハラ、モラハラといったハラスメントに対する意識が急速に高まっています。これは当然、誰もが安全で尊重されるべき環境を守るために必要なことです。しかし、ふと立ち止まってみると、別の懸念が頭をよぎります。赤の他人が、若い世代を育てるために熱意を持って接することが、ハラスメントとして捉えられかねない時代になってしまったのではないかということです。このままでは、社会全体が若者を育てるという役割を放棄してしまうのではないか、そんな危機感を覚えます。

かつて、家族だけでなく、学校の教師や地域の大人、職場の上司など、さまざまな「他人」が若者に対して重要な役割を果たしていました。彼らは、時に厳しく、時に温かく、若者たちを導き、その成長を支えていたのです。もちろん、すべての指導が適切だったわけではありませんが、それでも多くの若者は他者との関わりを通して、自分自身を磨いてきました。

しかし、今日では、そのような他者との関わりが難しくなっています。大人が真剣に若者に向き合い、教育しようとする姿勢が、時として「過度な干渉」や「プレッシャー」として受け取られることが増えています。私自身も、職業柄、若いアスリートたちと接する機会が多いですが、指導や助言をする際には、常にそのバランスを考えなくてはならないと感じています。相手に対する愛情や熱意が、誤解を生まないように細心の注意を払わなければ、思わぬところで「ハラスメントだ」と指摘されるリスクがあるのです。

このような状況の中で、家族だけが若者を守る役割を担うべきだ、という風潮が強まっています。もちろん、家族の役割は非常に重要です。家族が与える愛情や安心感が、若者にとって大きな支えになることは間違いありません。しかし、家族だけでは限界があります。社会全体が協力し、若者を育て、守る環境を作り上げていかなければ、孤立感や生きづらさを感じる若者が増えてしまうでしょう。

ゴルフ場もその一つ

この流れが顕著に見られる場所の一つに、ゴルフ場があります。ゴルフは、マナーを重んじるスポーツとして広く知られています。プレーの迅速さや、他人のパットラインを踏まない、他のプレーヤーとの挨拶といった礼儀が重要視されるスポーツです。しかし、近年では、ゴルフ場でもプレーヤー同士が互いに指摘をすることが少なくなり、むしろ「うるさい年配者がいないコース」を選ぶ若いプレーヤーも増えています。これは、ゴルフ場での「指導」や「マナーの伝達」が、時にハラスメントと捉えられる現象を反映しているとも言えるでしょう。

かつては、年配のゴルファーが若いプレーヤーに対してマナーや礼儀を教え、ゴルフを通じて世代間のつながりが生まれていました。しかし、今ではそれが「干渉」や「うるささ」として受け取られることも多く、結果として若いプレーヤーたちは年配者の指摘を避ける傾向があります。これが進むと、ゴルフというスポーツが持つマナーを学ぶ機会や、他者からの助言を受ける機会が失われてしまう懸念があります。

さらに懸念されるのは、社会の他者が関わることを避ける風潮が進むと、若者が全てを「自分で考え、決断しなければならない」という状況に追い込まれてしまうことです。自分の人生を自ら選び、決断することは大切なスキルですが、それを支えるための適切なフィードバックや助言が欠けると、若者は孤独に迷い込むことがあります。自分の判断だけに頼ることは、時に過大なプレッシャーや不安を生み出し、結果としてその道に進むことすら難しくなる危険があります。これは、若者の自己決定権を尊重する一方で、社会がどのようにサポートしていくべきかを再考する必要があると感じます。

他者が教育に関わることを「ハラスメント」として排除することなく、どのようにして適切に関わるかを考える必要があります。教育には、必ずしも厳しい言葉や強制が必要ではありませんが、時には指摘や助言が求められる場面もあります。それをただ「干渉」や「圧力」として捉えるのではなく、受け手も含めて、双方が理解し合える環境を作り上げることが求められます。

今こそ、私たちは社会全体で、どのようにして次世代を育てるかを再考する時期に来ているのではないでしょうか。他人が教育に関わることが敬遠されるような風潮が続けば、若者たちは自分自身を育む機会を失ってしまいます。家族だけに頼るのではなく、学校や地域社会、職場が一体となって、若者の成長を支える環境を整えることが、今後の課題かと思います。